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『源平にまつわる話し』

むかしむかし・・・・

八幡太郎義家をご存知ですか。
本当の名前は源義家といい、鎌倉幕府を開いた源頼朝は義家のひ孫にあたるといわれています。平安時代の終わり頃、八幡太郎義家は奥州平定を命ぜられ奥州へ向かう際に兵士を率いて小千谷の地を訪れ、その時桜町にある八幡神社(現伊米神社八幡宮)に立ち寄り戦勝を祈願して奥州へ向かったといわれています。
祈願のかいあって奥州を平定した後、都へ帰還する途中にふたたび小千谷に立ち寄ってお礼のお参りをし、余程感謝していたのか、八幡さまの社を守るため家来の中から阿部氏・永野氏の二人を残して行きました。
桜町には永野姓が多く、阿部氏は中町と姓を改め小千谷の市街地に中町姓が多く残っています。

平家の落人伝説は数多ありますが、そんな伝説が小千谷市内にも2つありますので、ご紹介したいと思います。
源平の戦いに敗れ平家方の武将「羽鳥一族」は千曲川に沿って落ちのび、途中大人数では見つかりやすいとのことで、上野(現群馬県)と越後に分かれることになりました。その際、一族の長が「この先辛いこと苦しいこともあろうが、耐え忍んで生き延びれば羽鳥一族がふたたび世に出る時もあろう。無事落ち延びて落ち着く事が出来たら一族の証として、中心になる家の前に三本の杉を植えよう。」といって別れたそうです。越後に落ち延びてきた一隊は真人村に辿りつき、荒れ地を切り開いて百姓として暮らしました。そして約束通り本家の家の前には三本の杉を植えました。その地は三本の杉の木を中心に開かれた名田と云う事で三木明(さんぎみょう)と部落の名前がつけられたそうです。しかし代を重ね三本杉の云われも忘れ去られ、危険だという理由で切り倒されました。
一方、上野(群馬県)方面に向かった一隊も群馬・埼玉に広がり無事に落ち延びたそうです。その落ち延びた群馬県の羽鳥一族から問い合わせがあり、この伝承が伝えられて三木明の云われ等が、分かったと言われています。

ここで、真人村(まっとむら)の「まっと」も珍しい呼び方の地名だと思いませんか。
この呼び名も何かの因縁か八幡太郎義家(源義家)がこの地を訪れ、当然のごとく蝦夷(えみし)の人間が住む地だと思い込んでいたところ、大和人が住んでいた事にホッとして、真人(まひと)の住むところと言ったことから、真人という地名になったそうです。

源平の戦いで敗れた相手、源頼朝の先祖が名付けた土地に平家の落人が住み着くのも何かの縁なのでしょうか。
※当時は大和人・和人を真人(まひと)と呼んでいたそうです。逆に蝦夷(えにし)と呼ぶのは関東の一部から東方、現在の北海道までの地に住む者たちを蝦夷(えみし)と呼んだと考えられます。
もう一つの平家落人伝説は、片貝町の八島という部落に伝わる伝説です。
八島と聞いてピンと来た方もいるのではないでしょうか。
そうです源平の戦いがあった屋島に関係するのです。源平の戦いの際、屋島で敗れた平家の落人が遠くこの地へ逃れ住み着き、よほど悔しかったのでしょう、屋島の戦いを忘れないよう、平家の再興を夢見て「屋島」と付けた地名とされています。 この話は、八島出身の方が調査・研究されて「夢幻響」という本にまとめているそうですので興味のある方は一見の価値ありです。

※参考文献 小千谷の伝説 五十嵐秀太郎著 恒文社
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